NHK教育「能・狂言入門」第四回から

講師は野村萬斎先生。
すごい人だってことで名前は知ってるけど、実際どうすごいのかはよくわからない人としておなじみだろう。
この番組(の後半だけだった…)で多少なりとも触れ、やはり実感にまでは至らないものの、その片鱗は見せていただいたように思う。


今回感じたことは、
「すごいものだってことで名前は知ってるけど、実際どうすごいのかはよくわからないもの」
である狂言を、なるべくわかるように伝えようとしている人なんだろうな、ということ。
つまり、世間が野村萬斎という人にいまいちピンとこないのは、すなわち狂言というものにいまいちピンとこないからだ、ということに、真剣に取り組んでいるんだろうな、と。


例えば、狂言としてシェイクスピア劇を演じる試み/演目について
「もともと日本にしかない食材を和風に調理して召し上がっていただいても、それは『日本料理とはこういうものか』と思われるだけです。同じ食材を、フレンチの料理法だけでなく日本独特の料理法でもって調理することで、『なるほど、日本の料理法というのはこういう特徴があるのか』とご理解いただけるのです」
と語る。その一端として、
「双子が二組登場する芝居がありますが、通常の演出では同じ衣装を着させることで双子のように見せます。狂言には世界でも珍しい『面』がありますから、これを被ることで双子を二組登場させることができるわけです」
と言う。


また、野村萬斎狂言に電光掲示板や大きなモニターを利用する。これについては
能舞台というのは不親切なものです(笑)。」
と言いつつ、
閻魔大王が死者を裁くのに浄波璃(じょうはり)の鏡というものを使いますが、これは死者が生前に犯した罪悪を写しだすものです。しかしこの鏡がこういうものだという知識/情報がなければ、ただ鏡を見て何故か恐れ入っているということで、伝わりません。そこで、何がその鏡に写っているのかを大きく映し出してしまうのです」
と語る。


一読すれば「ああ、そういうものか」という内容だが、野村萬斎はこれらの新技術/新見地を打ち出すにあたって、自らの狂言の技法についてはなんら手を加えてはいないということに気づかされた。
これは、野村萬斎狂言師としての自信、狂言という芸術に対する信頼感があってこその挑戦と言うべきだろう。狂言の側から新芸術とその愛好家に変節しながらすり寄るのではなく、狂言の技法そのものは堅持しつつ、新時代の演劇愛好家の手をとって、狂言の世界へと踏み込みやすく誘導する試みにすぎないのである。


話は移り、狂言の修行は
「猿に始まり狐に終わる」
という言葉を紹介しつつ、狂言の修行とは何かを述べていた。
狂言の家に生まれますと、三、四歳から師匠のやる通りの真似をして猿の演目を覚えて初舞台を踏みます。その後『那須余一』などを学びながら、『釣狐』をもって一応の卒業となるわけです」
この『釣狐』は元来秘曲と言うべきもので、
「これは秘曲ですから『しいくれっと(本当にこう発音していた・笑)』なんですが、例えばふつう右足から踏み出すところを左足から踏み出す。そういう今まで覚えて身に付いた技術のひとつひとつを逆に演じることで、習い覚えた狂言の技法を見つめ直す、という意味もあります」
と語っていた。


こうして自らのうちに狂言としての表現を培う一方、外に対してはその味わい方、鑑賞のしかたを大胆に提起してゆく。それが、狂言師野村萬斎の仕事として世に知れていく。
伝統を守るなかでそれのみを良しとせず、伝統されうべき芸術であることを改めて世に問うていくことが、野村萬斎狂言に対する自信と情熱によって支えていることを知らされた思いだった。