「悪役レスラーは笑う」読後論。

と、いうわけで、今もっていまいち感想が定まってないけど、がんばって書いてみる。
あー。携帯からだと字数の多い文章を編集できないみたいなので、別題として書きます。

まずは、この本の概略を。
幼い頃からのプロレスファンであり、TVのドキュメンタリー番組のフリー?ディレクターである著者、森達也氏が、「世紀の悪玉」グレート東郷について、その出自から実像を探った作品であり、グレート東郷アメリカでのレスラー生活で「卑劣なジャップ」というキャラクターを確立させ、また自身も自らを日本人と称していながら、探るうちにかれの出自がどうやら少なくとも片親(母親)が中国人、あるいは韓国人だったらしいという「秘密」に突き当たり、「日本‐中国‐韓国」という歴史的関係性を軸に、「プロレスとナショナリズム」というテーマを発掘してそれに迫る、というものである。


さて。読んだは読んだが不満なわけです。
「いずれにせよ僕は、リアルタイムでは彼を知らない」(P6L15)
と言う著者と、ボクは基本的に同じ立場だ。著者より21年後に生まれたボクが、グレート東郷を生で知るはずもなく、その意味で著者とボクは同一の地平にある。
そしてまず著者から知らされるのは、「卑劣なジャップ」「世紀の悪玉」であり、「老人ショック死事件」「ホテル?ニューオークラ襲撃事件」の当事者である、などの「怪物」としてのグレート東郷の来歴であり、それほどスキャンダラスな存在でありながら彼は同時に日米のプロレス界に巨大な影響力を持ち、かの力道山が彼に対し「全幅の信頼を置いていた」(P61L13)という。
当然、ボクとしては、このグレート東郷というレスラーの正体に興味を持てたわけだ。二面性というか、一見両立しえなさそうに見える個性を一身に備えた人格というのは、それだけで目を引く存在である。ボクが急造のプロレスファンであることを差し引いても、このプロレスラーの一代記が持つ魅力には、それなりの求心力がありそうに思える。

が、日本プロレス史(そして日本テレビ放送史)における「創設者」である力道山が実は韓国籍、いわゆる「在日朝鮮人」であったあの時代、その力道山と(傍目には)異様な交情を持っていたグレート東郷も、実は母親が中国人であった、という、意地の悪い言い方をすれば著者の「とっておき」が開陳されるあたりから、この本は急速にそのドキュメンタリーとしての色彩を失っていくように見えた。

ボクにとってこの原因はわかりやすい。「日本‐中国‐韓国」という構図がグレート東郷の人生の裏側に見えてきたとき、著者にとって「東郷の実像」よりもその出自を契機として「ナショナリズム」という「真のテーマ」を設定したほうがドキュメンタリーとして面白い、と著者が判断したことにあるだろう。
いみじくも、著者は
「ドキュメンタリーは主観的な作業である。(中略)だってその被写体を追う自らの心の動きが、ドキュメンタリーの主軸となるのだから」(P115L3〜5)
と述べている。つまり著者にとっての被写体が、グレート東郷の実像から、その裏面に潜む出自から想起されるナショナリズムの問題へと移動したその流れこそがこのドキュメンタリーの「主軸」であると、森氏は自ら宣したに等しい。

結果として、この「軸」の取りかたは大失敗だったと言いたい。
著者の凝視した「(プロレスにおける)ナショナリズムの実体」がいかに危ういものであるかは、このはてなダイアリーグリフォン氏が「見えない道場本舗」で指摘しているし、なにより指摘されてしかるべきは、「東郷の実像」と「プロレスにおけるナショナリズム」との間に、明確なブリッジが存在しない点にあると思う。
つまり、著者自身が紹介した数々のエピソードの主であるグレート東郷の素顔=実像に対して、その出自に対して明確な事実あるいは確信に近い推測が立てられなかったが故に、著者は一定のモデル(輪郭?目鼻)を立てられずに稿を閉じた。
ここにおいて著者にとっての「グレート東郷の実像」は単に「プロレスにおけるナショナリズム」という「真のテーマ」の呼び水程度の位置に後退し、終盤に至ってかろうじてグレート草津へのインタビューという形式で極めてノスタルジックに触れられ、また斉藤文彦氏の助力による米ブログの書き込みという形式で極めて断片的に(断片的であるが故にいかにもある種の事実らしく)触れられたのみである。
これは、ドキュメンタリーとして、あまりに対象への敬意を欠いているように思うのだがどうだろう。著者は、東郷の出自について一定の仮説を提示して、その観点から東郷を巡る数々の(著者自身が提出した)事件や証言について、著者なりの一貫性をもたせるべきではなかったか。あるいは、実像は不明であるとして、いさぎよくそれを明言するか。ドキュメンタリー作者として、それは最低限の責務ではないかと考える。


著者への文句はまだある。
グレート東郷の実像」が不明のままに終わったとして、「東郷におけるナショナリズム」の代わりに「プロレスにおけるナショナリズム」の例として挙げられたのは、ほぼ東郷の実像と関わりがないと断言できる、ゼロワンMAXの「靖国神社奉納プロレス」の新聞報道と、それに対して無責任に匿名で綴られたネットの記述である。
まず、ゼロワンMAXは著者に対して、このイベントを引き合いに出した真意を問うていい。P184〜P187というごくわずかな紙幅で、新聞報道と誰のものかもわからぬネットの書き込みだけを論拠に
「このレベルには、彼らがよく口にする「民族の誇り」や「国家への思い」などの高邁さや崇高さはかけらもない」(引用注?ここで著者が言う「彼ら」が誰を指すのかは、実は著書の文脈では明らかではない。が、少なくとも奉納プロレスを実施したゼロワンMAXを指していることはないだろう。おそらくは直近で、これまた唐突に名指しされた現職都知事石原慎太郎氏や、ネットの匿名子を指すのであろう。それにしてもだ)
と、主催によるイベント主旨の検証や主意の掲載を怠り、結果としてイベントそのものの価値や事実を、「しょせんこう揶揄される程度のもの」と一方的に下落させたに等しい。
著者の言葉を借りれば、
「思想、信条は自由。だけど相手が」そう理解されることを望んでいないと想像でき「るのなら、それを避けるくらいの良識は、人として当たり前だ。」(P186L10)
ということである。上記引用中でわざわざカッコをはずした部分は、原文では
「だけど相手がその呼称を嫌がっているのなら、」
となっている。文中にある「相手」が他者からの一定の判断を「嫌がっている」と決めつけていない点、著者の原文より公正さを期したことを念のため添えておく。


長々と書いてきたが、要するにこういうことだ。
?調べたけどわかりませんでした、ってのはいいとして、それを素直に認めるならまだしも適当に紛らわせるってどうよ。
?何の関係もないのに、とばっちりで不心得者呼ばわりされたゼロワンMAXとか石原都知事とかに対して、あまりにも失礼でないかい。
身も蓋もない。でも、結論の軸としては、ほぼ想定の範囲内に収まったので、このへんで携帯のボタンを押すのを終わりにしよう。

実に6000字。これがちゃんとはてなダイアリーに掲載されるかどうかが、今のところ最大の不安だ。