「坂の上の雲」今日20時から放送SP。

pon-taro2009-11-28

いよいよだねぇ。僕の周りも、僕だけは盛り上がってるよー!
というわけで、3年後のグランドフィナーレに「なんだよ!ちゃんと見ておけばよかった!」と愚かな後悔をする人を少しでも減らすため、直前のうえこんな過疎ブログながら、「坂の上の雲」をなぜオススメするのか、そのあたりを及ばずながら語らせていただきたいと思う。


そもそもこの「坂の上の雲」は、明治時代のお話。その中でも、日露戦争という戦争を大きな山場としています。簡単に言ってしまえば、

明治維新によって近代国家に生まれ変わった日本が、わずか37年で、どのようにして強大なロシア帝国に優勢勝ちできるだけの国家を作り上げたか」

ということを丹念に描いた作品です。
まず、これが大事。
ご存知の通り、日本という国は、明治維新の前は江戸時代でした。江戸時代というのはいわゆる近世的な封建国家、これを、帝国主義的産業国家として叩き直したのが明治維新です。でも、それってつまり、どういうこと?
歴史的な意義はとりあえず脇に置いて、端的なもので示してみます。それは「技術」。その中でも、特にこの作品とも関わりの深い航海術を例にとります。


江戸時代において、日本の航海術は後退を余儀なくされました。徳川時代300年という世界史的にも希有といえる長さの平和な治世と引き換えに、日本という国は、航海術に限らずあらゆる技術的分野について、取り返しのつかないほどの停滞を強いられていたのです。
それは何故か?
徳川幕府が、徳川氏による支配を容易にするためです。対外的にもあの有名な「鎖国体制」を敷きつつ、国内的にも、原則として各地方(藩)間の勝手な旅行を禁じていました。この政策を徹底するために、徳川幕府は、移動手段にまつわる技術の研究・開発を禁止したのです。


この間、西洋では蒸気機関が発明され、海陸の交通の便が飛躍的に増しました。蒸気機関を搭載した動力船はあっという間に海上交通の主役となり、すでに大航海時代を経て植民地統治のノウハウを確立していた西欧の海運諸国(ポルトガル、スペインやイギリスなど)は、この新たな圧倒的な「文明の利器」を得て、その帝国主義的侵略をよりいっそう強固なものにしていきました。
こうした世界史的情況の中、我が日本は、蒸気機関はおろか風帆船の改良も許されず、かろうじて北前船に代表される沿岸航法が、幕府の管理のもとに認められている程度だったのです。


そんなところに、堂々たる蒸気戦艦艦隊によって江戸近海に乗り込んできたのが、あのペリー提督というわけです。
当時、日本で巨船と言われた「千石船」の排水量は約200トンほどだったが、ペリーの旗艦サスケハナ号の排水量は2450トン。ざっと12倍という、話にもならない「物量差」によって、日本が巡らせていた「鎖国」の鉄鎖は、いとも簡単に破られてしまいました。この強烈な「ペリー・ショック」は一部の国内有識者へ深刻な危機感を与え、その結果、維新後に成立した明治国家は各種産業の推進を強力に志向することになったのです。

…長くなったので簡単にまとめると、

鎖国によって世界情勢に疎くなっていた日本は、幕末になって西欧列強の国力の高さにびっくりし、追いつくためにシャカリキになって産業改革をした」

ということですね。


そんな、国を揚げての進取の時代を舞台にするのに、司馬遼太郎は3人の男を主人公として選びました。
明治日本の陸海軍で、ちょっと言葉では言い表せないくらいの大活躍をした秋山好古・真之の兄弟と、真之の幼なじみであり日本の俳句を文字通り一新した正岡子規の3人です。


まずは、上でも話題にした航海術について非常に関係の深い、秋山真之から。「まさゆき」じゃないですよ。「さねゆき」と読みます。
この真之(さねゆき)は、海軍軍人で、役職は参謀。海軍の作戦を一手に引き受ける立場にいました。
彼の業績を簡単に言うと、彼の立案した対ロシア艦隊作戦により、ロシアの極東艦隊、およびバルチック艦隊が、全滅しました。そういうことをした人です。
戦力比でいうと、ほぼ日本艦隊:極東艦隊:バルチック艦隊=1:1:1。ロシアとしては極東艦隊とバルチック艦隊を合わせて1:2で当たりたかったところでしょうが、真之は、この両艦隊が合流する前にまず極東艦隊をほぼ無傷で撃破し、続いてはるかアフリカ・アラブ・インド沖を回航(世界を半周!)してきたバルチック艦隊を捕捉・撃滅してしまいます。要するに大天才ってことなんですよ。

そんな真之は、子供のころはガキ大将。しかも、陽気に明るく引っ張っていくというタイプではなく、無口で暗い印象なんだけど、一度決めたことは何があってもみんなを引きずってでもやり遂げてしまうような、年少者からはおそれられる存在だったとのこと。
真之は、長じて海軍に入ると、古今東西の戦史戦歴をかき集め、分析し、統合して対ロシア艦隊作戦を練り上げます。その結果は…上に書いた通り。
この秋山真之を演じるのは、本木雅弘。意志の強さと神秘性を兼ね備えた、天才肌の参謀軍人にぴったりの役者さんだと思います。このキャスティングの時点で、このドラマは成功したも同然ですね。


さて、その真之の子供のころからの友人が、正岡子規。彼も、真之と同じように、古今東西のものをかき集め、分析し、統合してひとつの新しいものを練り上げました。真之にとっての対ロシア艦隊作戦にあたるもの、子規にとってのそれは、新しい俳句の確立です。
子規はもともと、あらゆる新しいものに興味を示す、好奇心旺盛な青少年期を過ごしました。学問、政治、民権論、そして、野球。日本に野球という外来のスポーツを根付かせたひとりとして正岡子規の名を記憶している人もいるかもしれませんね。
そんな好奇心旺盛な、いわば移り気な子規が、死病を自覚する前後、俳句という世界に出会います。
当時の俳句界は、ゆるやかな衰退の途上にあったそうです。幕末に流行したのは、真字(漢字)を使い、内なる志を激しくうたい上げる漢詩でした。漢詩は志士にとっての教養の一部とまでに流行しましたが、俳句は、ただ松尾芭蕉を神とも仰ぎ、隠居した老人が物好きで手を出すていどの、いわば遊芸とみなされていました。

そんな中、突然、ものすごい勢いで乱入してきた新人類が、子規でした。子規はまず、俳人たちの尊敬を一身に集める芭蕉について、バッサリと切り捨てます。「芭蕉芭蕉と崇められるが、なにも芭蕉だけが俳句のすべてというわけじゃない」と。トキワ荘メンバーに向かって「手塚先生のマンガも、本当にいいものは一握りですよ」とか言うようなものです。
こんなことを突然言い出したから、子規は当然、当時の俳壇から猛烈な反発を受けました。その攻撃を子規は受け止め、切り返し、反撃し、その中で自分の句境をより深めていきました。

正岡子規は、結核から脊椎カリエス結核菌が骨を冒す病気。骨にできる虫歯のようなものらしい…うぇぇ…)を患い、34歳の若さで苦痛の内に亡くなります。
世界のあらゆる新しい動きに敏感で、博士にも大臣にもなりたいという明るく健全な青年らしい野望の持ち主だった子規がたどり着いた句境は、「写実主義」でした。三十一文字の中で極力技巧を排し、俳人の目に写る風景を、そのまま五七五の韻律に封じ込める。若くして病床に幽閉された子規にとって、世界とは、自分のささやかな体験などの入りこむ隙のない、巨大で圧倒的な「存在」だったのかもしれません。

 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

子規の代表作ですが、この句をよむにあたって、子規は、何よりもよく熟れた柿の甘さと、夕暮れの空に響く法隆寺の鐘の音を決して忘れぬよう、ただひたすらに純粋な風景を文字に換えることだけを目指したのではないか、そう思えます。句はそこに、写真のようにありさえすればよい。その句を見るだけで、病の床にある自分が、法隆寺を訪れた秋の日にそのまま没入できるように。
正岡子規役は、香川照之が演じます。明るく騒々しい溌剌とした子規はもちろんのこと、死病にとりつかれた晩年の子規を演じるために17キロもの減量をしたというそのシーンを予告編で見たとき、自分はこのドラマの成功を確信しました。


残るひとりの主人公、秋山好古。「よしふる」と読みます。彼の魅力は、ちょっと文章にするのが難しい。
彼の所属した日本陸軍での功績は、まったくの0から「騎兵」という兵種を育てあげ、当時掛け値なしに「世界最強」と言われたロシアのコサック騎兵隊を擁するロシア陸軍との正面決戦において、その大規模な会戦のほとんどで勝敗の分かれ目となる戦線を支え続けたというものです。

ちょっと考えると、日本には騎馬武者の伝統があるので「騎兵を0から育てる」というのは奇異にうつるかもしれませんが、あにはからんや。日本史を通じて登場する騎馬武者と、近代陸軍における騎兵の役割とは、全く違うそうなのです。

華麗な武者鎧に身を包み、馬上高く名乗りをあげ、槍をしごいて敵陣に突入する…日本的な騎馬武者というのは、単に「馬に乗った高級将校」というだけのものでした。馬というのは、道具ではなく、むしろ身分や地位の象徴のものだった、と言えます。
対して西欧的な近代陸軍における騎兵とは何か…教官を勤めていた陸軍士官学校で、好古は、それを説くために突然ガラス窓を拳で叩き割ったといいます。ガラスは粉々に砕け散りますが、好古の拳も傷つき、真っ赤な血が流れます。

騎兵とは、その機動力と攻撃力をもって敵陣の急所に猛攻し、騎兵部隊の壊滅と引き換えに敵陣全体に致命傷を与える…というもの。こうした騎兵運用はナポレオンが開発し、後には馬が戦車に替わってなお受け継がれたという、歩兵どうしの白兵戦闘こそが合戦だと認識される日本の軍隊にはまったくなかった思想でした。
その思想がないということは、陸軍の軍制においても、専門兵種としての騎兵隊を構築するという発想がなかったことを意味します。回りくどい言い回しをしていますが、具体的にいうととても簡単なことです。
そもそも、日本陸軍には、騎兵隊を組織するのにじゅうぶんな馬すらいなかった。
つまりは、そういうことなんですね。

運用思想も馬すらもいないのに、「西欧には騎兵というものがあるらしい」というだけの認識で、好古は「その騎兵をつくれ」と命じられます。そして好古はガラスを拳で割る以上の懸命の努力を注ぎ、みずから騎兵を作り上げ、世界に冠たるロシア陸軍と互角以上に渡り合うという瞠目すべき結果を残しました。
…と、これだけでは好古は根っからの職業軍人のようですが、その指揮法は、例えば「今の陣地を防衛せよ」と簡単な命令を伝えると、あとは敵の銃弾が飛んでくる最前線まで出ていって、大好物の酒を飲みながら寝っ転がっていたそうです。服装や軍規にも厳格ではない、豪放磊落という形容がぴったりな人だと描かれています。
その秋山好古を演じるのに、阿部寛以外の役者は想像もできません。このドラマが失敗するはずないですよね。


…と、長々と語ってきましたが、「坂の上の雲」の最大の魅力は、その中で描かれる「青春」にあると思います。「青春」とは、真之の、子規の、好古の青春であると同時に、この日本の、明治国家という国そのものの青春期であるのです。
司馬遼太郎は、この作品の単行本第1巻のあとがきで、「明治時代特有の明るさ」を「楽天主義」としたうえで、こう書いています。

楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」

ここで述べられている「楽天家」とは当然秋山兄弟や子規らを指していますが、自分には、明治日本そのものがそういう時期にあったのだ、と思えます。

若く、未来を疑わず、明日を信じてひたすらに進む。日本にもそんな時代があったんだなぁ、と、原作小説を読むと、いつもそう感じます。


NHKドラマスペシャル「坂の上の雲」。たぶん、見て損はないはずですよ。