過去ログ・村上春樹。

527 名前: 村上春樹に挑戦。 投稿日: 01/09/01 11:57

 目が覚めたとき、僕は毒虫になっていた。
 僕は、やれやれ、と呟いて、体を起こそうとした。でも、背中は象
の足の裏のように固く、しかも丸まっているので、何度試しても上手
くいかなかった。
 そのうち、ちょうど百回も試したぐらいで、脇腹が鈍く痛み始めた
ので、僕はあきらめて仰向けに寝転がった。何年かぶりに無性に煙草
が吸いたくなったが、どうせ煙草を持っていないのは明らかだったか
ら、あきらめるしかなかった。
 僕は、しばらくうす茶色の腹から突き出した、節くれだった十本の
足をひらひらさせていたが、それは無意味なことには違いなく、すぐ
に止めてしまった。出勤時間が近づいていたが、今の僕にはどうしよ
うもない。あいかわらず起き上がることはできないし、煙草もない。
 仕方なく、僕は寝転がったままザ・ナックの「マイ・シャローナ」
を口笛で吹いてみた。その曲はいくぶん僕を勇気づけてくれたが、だ
からといって僕が毒虫であるということに変わりはなかった。
 「人間なんて、みんな、毒虫よ」
 僕が何人めかに寝た女の子が、そう言っていたのを思い出した。彼
女が今の僕を見たら何と言うだろうか。でも、彼女はすでに去ってし
まっていた。
 僕は、天井を眺めながら。僕が人間であったときに失ってきたもの
を順に思い出していった。それらの全てが、今、起き上がることもで
きないこのベッドの周りに集まってきているような気がした。
 「グレゴールや・・・」
 母親が僕を呼んだ。でも、僕はもうグレゴールではなく、一匹の毒
虫だった。
 だけどその考えは、僕をどこにも連れて行きはしなかった。