個人的な情景。
(※:この文章はフィクションです。)
路地裏の薄暗い中華料理屋である。
床はところどころひびが入った打ちっ放しのコンクリート。壁紙にはいたるところに正体不明の染みがあって剥がれかかっている。
空いたテーブルの上にはコップの底のかたちの水滴や丼の底のかたちの乾いたスープが跡を残していて、調味料の瓶のうちのいくつかは触るのをためらうほどに油染みている。
店内に、客はボクらの他に数人いる。店員の姿はない。
大きな鼻の下にヒゲを生やしたはげ頭の中年男性と、酔いつぶれたらしく半開きの口から涎を垂らした、青緑色にしなびた老人。
小上がりになっている座敷席には、全く見分けのつかない、白っぽくてまんまるな3人の親子連れ。
ボクの目の前に彼女がいる。
彼女は黒く長い髪につやのない肌で、顔には化粧気も表情も魅力もない。
そして世界中でただ一人、ボクだけに愛されている。
ボクはその時、テーブルに置かれた婚姻届けに判を捺すところだった。
ここがボクの居場所なのだ。これがボクたちの住む世界なのだと、そう思いながら。